(9)ガラ紡機の登場と発明時期
このような顛末で明治4年(1871)に還俗し俗人に戻った臥雲辰致は、廃寺となった弧峰院に住み続け、主に農業をして生計をたてていました。もちろん使える時間はたくさんありましたから、14歳に閃いた火吹き竹による綿紡機の開発への情熱が再び臥雲辰致の心に燃えたぎり始めたのは間違いありません。そのためか、臥雲辰致は俗人になってから僅かの年月で実用レベルの太糸綿紡機を発明しました。しかし、この綿紡機の発明年次がはっきりしていないのです。そのあたりの考察が、武居利忠氏「臥雲辰致の研究」(http://tki.main.jp/gaun/) に多くの文献とともに記述されています。通常、臥雲辰致のガラ紡機の発明年は明治6年としている資料がほとんどです。その他に、5年、8年、9年と諸説あるようですが、前述の武居氏はずばり、明治4年と明言しています。その根拠は、「2章「自筆履歴書草稿」の謎」に説明されています。とは言っても、還俗した同じ年に太糸のガラ紡機を開発できるか、還俗する前まで僧侶の生活をしていたのに、そんな時間はなかったのではないか、と言う指摘もあったためでしょうか、いろいろな解釈がなされて、明治6年発明と言うのが多くの文献で採用されているようです。
このようにガラ紡機の発明時期には諸説ありますが、臥雲自身が書いたと履歴書がもっとも事実に近いことは間違いないでしょう。そこで、前述の武居氏の「2章「自筆履歴書草稿」の謎」に取り上げられている資料から読み解いた履歴書の文章に注目してみます。ただ、漢字とカタカナで表記され、しかも句読点の無い、とても読みづらい文章です。そこで、ChatGPT君の力を借りて臥雲の履歴書のうち、ガラ紡機の発明時期について考察します。
原文は、武居氏の「2章「自筆履歴書草稿」の謎」に示されていた資料「明治十年公文録 太政官一月全」の末尾前4行目から最終行に記載されている次の文章です。
「爾後猶考志ヲ加工今日ニ至リ稍々改良ノ功ヲ奏セリ抑綿糸機械発明以来年ヲ経ル事ニ十有七改良スル事八度ニシテ漸ク功用全キ物二至レリ 右の通り御座候也 明治十五年一月右 臥雲辰致」
これをChatGPTに解釈してもらうと、
「その後も引き続き改良を重ね、今日に至ります。そして、少しずつですが改良の成果が現れてきました。元々の綿糸機械の発明から17年が経ち、その間に8回の改良を行った結果、ようやく完全に実用的な機械が完成しました。以上の通りです。明治十五年一月 臥雲辰致」
となります。
ここには、「綿糸機械の発明から17年」と書かれています。この履歴書は、明治15年(1882年)に書かれていますので、17年前というのは慶応元年(1865年)に相当します。つまり、臥雲辰致が24歳(数え年)のときで、前記のように弧峰院の住持になる二年前です。つまり綿糸機械の発明時期が慶応元年(1865年)とこれまでの諸説を凌ぐ遙か以前と言うことになります。
また、この文章で気付く表現が、「「元々の」綿糸機械の発明」です。つまり、17年前の原点となる発明がそれほど完成された機械ではなく、その後、年月を掛けて8回も改良してやっと実用的な機械の完成に漕ぎ着けたということが推定されます。ですから、明治4年に太糸機械が完成したのも間違いは無く、その後も改良をして明治9年に実用性の高い細糸綿糸機械となっていることです。その後も、何度も改良が重ねられ、臥雲が起業した連綿社で全国販売を展開していったのです。
このことは、ガラ紡機に限ったことではなく、一般の製品を開発して販売するときも同じで、ある製品を売り出そうとするとき、試作品を何度も作って性能を確認し、基本性能が確認された場合には販売し、販売中も、ユーザーからのクレーム対応によって製品の改良を続けているのと同じです。この際、最初に製品販売する前には、通常、その製品が他社に真似されないように特許申請することで独占的な販売を実現させる法的根拠を確立させているのです。
このような通常の製品開発サイクルをヒントに臥雲の綿糸機械の開発を考えてみると、24歳のときの「元々の綿糸機械の発明」というのは、14歳に火吹き竹の綿のアイデアを10年掛けて糸に出来るまでの機構設計を頭の中で進め、20歳になって僧侶をしながらも実際に手に入る木材と竹を使って機械を製作して性能試験を行い、再び改良し、また製作と、同じプロセスを何度も繰り返して、ようやく24歳のときに「綿糸機械」の基本形が完成したことです。
すなわち、ガラ紡機(綿糸機械)の基本構造の発明時期は、慶応元年(1865年)、臥雲24歳(数え年)のときであることが、臥雲自筆の履歴書から結論づけられるのではないでしょうか。
(10)臥雲辰致の履歴書
前述の臥雲辰致の履歴書は、漢字カタカナ交じりで句読点がない文章のため、非常に分かりづらくなっています。そこで、前掲の武居氏の「2章「自筆履歴書草稿」の謎」に掲載されている履歴書原文をChatGPT君にお願いして、分かりやすくまとめてもらいました。以下に示します。(年齢は数え年)
履歴書
- 氏名:臥雲辰致(旧名:栄弥)
- 生年:天保13年(1842年)8月15日
- 住所:長野県下東筑摩郡北深志町二百二十八番地
経歴と業績
1. 出身地・家族
- 出身地:南安曇郡科布村(現在の長野県)
- 父親:横山義重、農業と足袋底製作を生業とする
2. 幼少期から青年期の学び
- 9歳(1850年)のとき、加州人松下氏に習字を学び始める
- 12歳(1853年)または13歳から、父の指示で周囲の村々で綿を配り、糸を作る仕事に従事
- 14歳(1855年)、手作業の重労働を軽減するため、機械の改良に取り組み、小型機械を作るも実用には至らず
3. 僧侶としての修行
- 20歳(文久元年(1861年))、父の勧めで安楽寺の住職・智順に従い、法名「智恵」を授かり僧侶となる
- 7年間、寺で経論を学び続ける
- 26歳(慶応3年(1867))臥雲山弧峰院の住持に抜擢される
4. 還俗後の事業活動
- 30歳(明治4年(1871年))旧藩主の勧めで還俗し、名字を「臥雲辰致」に改名
- 鳥川村に居を構え、紡糸機械の製造を開始
- 太糸機械を初めて成功させ、足袋底に使われる太糸を生産
5. 機械の改良と発展
- 32歳(明治6年(1873年))地租改正の実地調査において測量器を製作
- 同年、紡績機械専売免許を官に請願するも法整備が追いつかず
- 35歳(明治9年(1876年))細糸機械と機織り機械を考案、成功を収める
- 同年、松本に「連綿社」を設立し、大規模な機械製造に取り組む
6. 博覧会と受賞
- 36歳(明治10年(1877年))機械を改造し、北陸巡幸時に長野展覧所に出品、天覧に供される
- 同年、進歩を評価され、第一回内国勧業博覧会で「鳳紋賞牌」を受賞
- 同年、静岡県、石川県、富山県などに支店を開設し、全国で機械を販売
- 37歳(明治11年(1878年))綿糸機織り機械を改良し、再度天覧に供される
- 40歳(明治14年(1881年))綿糸機械を第二回内国勧業博覧会に出品し、二等賞牌を受賞
7. 改良の継続
- 綿糸機械の発明から17年、8度の改造を行い、最終的に実用的な機械を完成させる
- 引き続き技術改良を加え、現在に至る
明治15年1月(1882年1月)臥雲辰致
(11)第1回内国勧業博覧会への出品と鳳紋賞受賞
前節の履歴書にもあるように、臥雲辰致が開発した綿糸機械を第1回内国勧業博覧会に出品することになりました。この博覧会は、(6)で説明したように、初代内務郷大久保利通が推進しました。ここでは、国立国会図書館のサイト (https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html) から当時の博覧会状況を覗いてみましょう。
博覧会の開催場所と期間は、それぞれ、東京上野公園(10万㎡)で明治10年(1877年)8月〜11月の3ヶ月開催され、45万人の入場者数があったとのことです。1日の平均入場者数は5000人程度ですから、さほど多かったというわけでもなそうです。この年は西南戦争の開戦年でもあり、当時の民衆は博覧会どころではなかったのかも知れません。とは言っても、初物の大好きな江戸っ子は大挙して押し寄せたのが目に浮かびます。
さて、初めての博覧会ですから、主宰者側も出品数の確保に苦労したようです。そのため、出品人助成法を作って展示品の東京への運搬費用を助成したり、展示品は府県別に展示し競争心を煽ったりと、まさに現代でも通用しそうな施策を行っていたようです。とは言っても初めてのことも有り、政府出展品がもっとも多かったそうですが・・。そのような努力の甲斐もあってか、84,000点あまりの出品数を確保でき、それら出品物を鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6区画の会場で展示されました。
そのうち臥雲辰致のガラ紡機が出展された部門は「機械」ですので、機械部門の状況をもう少し詳細に見ていきましょう。
国立国会図書館のサイト (https://www.ndl.go.jp/exposition/s3/index.html) には、詳細な出品状況が掲載されています。それによれば、第4区機械は、更に17類に分類され、化学、工作、紡織、裁縫、時計から消火、農産、運搬まで当時の機械に関連する産業が多岐に亘っていたことが分かります。これら17分類に211点が出品されました。出品数の多い順に見てみると、紡織63件、農産51件、工作26件、提水25件等々となります。ここで提水というのは、ポンプ類のことのようです。この出品数で最多なのが、紡織、つまり紡績機械や織機機械類です。第4区機械の30%弱を占めており、次に農産の24%が続き、これは、明治初期に国民の衣食を重点的に改善しなければならないと言う明治政府の問題意識が垣間見えます。
このような殖産興業を狙った我が国初の博覧会は、外国製品を分解して模造したというミシンや印刷機の出展、西欧の技術を日本の産業に合う形で取り入れた製品や外国製品の模倣、改良といった段階に留まるものが多くあったようです。そのような中で、臥雲辰致が出展した綿紡機と同じ部門の第3類の紡織機械には、齋藤曽右衛門、倉島兵蔵出品の綿紡機、齋藤曽右衛門、倉島兵蔵出品の綿紡機、瀧口重内出品の綿紡機のほか多数の機械類が出品されていました。しかしながら、その完成度、実用性、そして在来技術との連続性を有していた点からも、臥雲辰致の綿紡機が他の出品物を凌駕するものと言え、そのため、この博覧会の顧問であった御雇外国人のゴッドフリード ワグネルにして以下の様な言葉を言わしめていました。
「臥雲の機は、余を以て本会第一の好発明となす。そもそも氏の始めて此機を案出せるより、数年を経て屨屨改良し、終に此実効を奏するに至れり」
すなわち、ChatGPTで分かりやすく表現すると、
「臥雲の機械は、私によってこの会の中で最も優れた発明として認められるべきものです。そもそも、彼が初めてこの機械を考案してから数年が経ち、その間に何度も改良を重ね、最終的に実際に効果が得られるようになったのです。」
となり、ワグネルも大絶賛することになったのです。博覧会顧問の意見もあり、臥雲辰致は、この博覧会で優秀な出品物に与えられる鳳紋褒賞(一等賞)を獲得することになりました。ただ、初めての博覧会のため、褒賞制度も開催直前まで混乱したようです。いずれにしても、博覧会全体で褒賞受賞者は5,000人以上、出品者の三割余りが受賞したとのことです。(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/03.html)
(12)博覧会出品後の反響とガラ紡機の普及
この様に臥雲辰致の綿紡機(ガラ紡機)は、博覧会に出品され、鳳紋褒賞を受賞することで多くの人々の注目を集めることになりました。特に、同業者つまり綿紡機のユーザーである紡糸業者や綿紡機の製造販売業者です。特に、博覧会では臥雲の綿紡機以外にも前述の通り、多くの綿紡機が出品されており、当然のことながらそれを開発製造した業者やその関係者も実際の臥雲の綿紡機を見ていたことは間違いありません。このことが、後に臥雲を経済的に苦しめることになってしまうのは、なかなか歴史の綾と言っても良いのかも知れません。
臥雲の綿紡機が様々な面で注目を集めることになった理由をまとめてみます。
1)逆転の発想:従来の糸車による手紡ぎ法は、糸に撚りをかけて短繊維の綿からその何千倍の長さの丈夫な糸にするのに対して、臥雲の綿紡機は綿を回して撚りをかけている。これにより従来の糸車では綿を人間が保持する必要があるのに対して、臥雲の綿紡機は筒内に綿を入れるため、人手が不要となる。
2)糸太さの自動化:従来の糸車では糸の太さを一定に保つため、人間が指先による掴み具合を調節して行っているのに対して、臥雲の綿紡機は、今で言うところの自動制御機構が働いて糸を巻き上げる力と綿の入った綿筒の重量を調節しているので、人手を煩わすことなく、一定の太さの糸が紡出できる。
3)綿紡機の構成素材:明治の初めであることも有り、臥雲の綿紡機を構成している材料はほとんどが木材で、綿筒などの一部鉄板(今で言うとことのブリキ板)であったため、製造コストが廉価で製造期間も短かった。何よりも少しの木工製作の経験があれば、ほぼ誰でも製作できることに繋がる。
4)糸紡ぎの従来技術との連続性:江戸時代から糸紡ぎとして広く普及している糸車による糸紡ぎの技術に必要な前工程として、実綿から綿繰りして種を除いた綿を綿弓で梳綿して繊維方向を整えて綿筒(じんき)作りが必要である。このプロセスは、梳綿して綿筒作りまではガラ紡機でも同様であり、その後、ガラ紡機の綿筒(めんつつ)に撚子(綿筒(じんき)と同様な形状)を詰めて紡出させている。すなわち、ガラ紡機の実綿の前工程が糸車によるそれとほぼ同じで、従来技術の一部が使われていることにより、ガラ紡機が全国に普及した理由の一つと言える。
これらの理由のうち、ガラ紡機の完成度、実用度、そして従来技術との連続性の点から、博覧会に参加した関係者から非常に注目されたことは間違いなく、臥雲が博覧会の前年に企業化した連綿社に対してガラ紡機の引き合いも多かったと想像できます。ただ、上述の3)の理由により、博覧会参加者らは
「この機械なら仕組みも簡単だし、だれか作れる人はいないかなあ?」
「そうだね、木工加工が得意な宮大工の文治郎さんに頼めばすぐ出来そうだ!」
「それは良い考えだ。すぐに郷里に帰って頼んでみよう!」
なんていう会話が展示されていたガラ紡機の前でなされていたのでしょう。つまり、ガラ紡機の特徴故に模倣品が多く、連綿社の正規品以外が全国的にも普及していた可能性が高く、販売していた輩もいました。ただ、臥雲も手をこまねいたわけではなく、明治14年に出したガラ紡の広告にも、
「唯擬造効用ヲ誤ルモノアルヲ恐ル世人宜ク上ノ焼印ヲ証トシテ弁識スヘシ」(「ただし、効用を間違って模倣することを恐れるべきである。世の中の人々は、上記の焼印(証拠)を見て、それが本物であるかどうかをしっかりと識別すべきだ。」(ChatGPT)
と書かれており、販売ガラ紡機に焼き印をして正規品を明示し、それがないものは買わないように訴えていました。(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/08.html)
(13)ガラ紡機の原理
第1回内国勧業博覧会に出品して大いに注目を集めることになったガラ紡機ですが、ここではガラ紡機の動作原理について説明してみましょう。
そもそもガラ紡機の正式名称は何でしょうか。歴史資料で振り返ってみると、前述の第1回内国勧業博覧会(明治10年)の出品リストには、外観図とともに「綿紡機」と言う名称が書かれています。一方、臥雲が起業した連綿社の広告(明治14年)には「綿糸機械」が使われています。さらに開発者の名前を付した「臥雲式和紡績機」や「和紡」「和式紡」「臥雲紡」等々、様々な名前が使われていたようで、名称の乱立は模倣品の氾濫の影響だったのかも知れません。
しかしながら名称の乱立は全国的な普及にも障壁となるので、徐々に名称が統一していったようです。それが、「ガラ紡機」「ガラ紡」です。この名称は、稼働中に「ガラガラ」と音がするためだそうですが、機械の特徴を表しているので適していたのかもしれません。ただ、発明者の臥雲辰致をリスペクトして機構の特徴を表した名称は無かったのかと、残念でなりません。例えば、臥雲精紡機でも良かったのではないかと思うのは私だけでしょうか。
さて、紡績にとって重要な基本動作は、繊維束から繊維を抜き出すドラフトと抜き出した繊維に撚りをかける加撚および撚りを元に戻らなくする巻取り動作です。(玉川寬治、技術と文明、3,No.1,1~20(1986)) これらの3つの基本動作を、シンプルな機構で実現させたガラ紡機の原理について次の図(黄更生ら、繊維学会誌、54,No.1,32~39(1998))を使って説明します。
①綿が詰められた綿筒は、モーターにより回転して引き出された綿繊維に撚りをかける(加撚)。
②糸張力が筒の荷重よりも大きくなると、筒は上方に引き上がる。
③クラッチC1とC2が外れて綿筒は回転停止する。
④停止しても巻取りローラーにより等速で巻き上げられる(巻取り)。
⑤綿表面とローラーの間のリフトの糸に溜まった撚りが少なくなる。
⑥糸にかかる綿筒の荷重により綿表面の糸形成領域で繊維の滑脱が発生する(ドラフト)。
⑦その滑脱のため、綿筒は落下してクラッチが噛み合い、綿筒が回転して撚りが再び増加する(加撚)。
⑧ ①のプロセスに戻る。
ここで、綿筒の綿が糸になって巻き上げられるとき、綿筒の重量が減少します。このため、装置下部の天秤機構により、綿筒に加わる上向きの力を壺心を通して綿筒に加え、その減少を補償しています。この天秤機構は、臥雲辰致がガラ紡機を発明したときに、導入した独自の機構で、ガラ紡機の特徴の一つとなっています。ただ、KARAKURI ONEがガラ紡機をいろいろ試作したところ、綿筒の綿の減少が糸の撚りや太さに影響する程度は少ないことが分かってきました。これは、綿筒の体積が小さく、綿を含む綿筒全体の重量に占める綿重量の比が小さいことから、天秤機構による綿重量減少の補償機構は不要と判断し、ガラ紡機の構造を簡素化しました。
KARAKURI ONEが製造販売しているMYガラ紡機の構造を次の図に示します。基本的には、臥雲のガラ紡機と同じ構造ですが、次の点が異なります。
①綿筒の回転をダイレクトドライブ方式にしています。これによりクラッチ機構とベルト駆動を省略できました。
②天秤機構を省略し、構造を簡素化するとともに、壺心の末端に綿筒ストッパーを付けることで綿筒が抜けるのを防ぎました。
③糸の巻き取り方法をローラー形式から巻取りボビンに変更しました。ただ、機構はシンプルですが、糸を引き上げる力が巻取り直径に依存して一定ではないことが欠点となります。
MYガラ紡機の一連の動作を次の図を使って説明してみましょう。
①綿筒重力の方が巻取りボビンの巻上力よりも大きいため、綿筒が綿筒回転プーリーに接触し、糸に撚りが加えられる。
②撚りが更に増えると、綿筒重力に比べ巻上力に加撚力が加わるため、綿筒が上方に引き上げられ、綿筒とプーリーの接触が断たれ、回転が停止する。
③綿筒重力のために綿筒から綿繊維が抜けて撚りのない繊維が生じる。(ドラフト)
④糸上部の撚りの強い状態が、ドラフトされた撚りのない部分に伝搬して綿筒が下降していく。
⑤さらに糸の撚りが平均化されて加撚力が減少して綿筒が再び、回転プーリーに接触し、再び綿筒が回転して①の状態に戻る。
以上のように、MYガラ紡機では機構を簡略化していますが、本家ガラ紡機と遜色のないガラ紡糸が紡出できています。それについてはMOVIESページのYouTube動画をご覧ください。