(0)はじめに:ガラ紡機との出会い
ガラ紡機が発明されてから150年の時が流れました。私がガラ紡機と言う言葉に初めて触れたのは、12年くらい前になります。当時、東京農工大学科学博物館長にさせられたときに博物館の展示品の1つが東日本で唯一稼働しているガラ紡機でしたが、たくさんの展示品の一つとしか考えておりませんでした。と言うのも、メインの博物館資料が大学のルーツでもある養蚕、蚕糸関係でしたから、綿紡績機はその他の一つと私の頭の中で位置づけしていたからでした。況んや日本オリジナルで臥雲辰致という元僧侶が発明したなどガラ紡機の背景にあった史実は全く考慮の対象外でした。
そのような私のガラ紡機観を大きく変えた切っ掛けは、退職後に科学博物館に訪ねたときにもらった学芸員齊藤先生の一言でした。
「梅田先生、ガラ紡機、作れませんか?」
それから博物館2階の展示室にあったガラ紡機を繁々と観察して、32連(綿筒が32本並んでいます)は無理だけど、1本なら出来るかも?という印象を持ち、早速自宅でノートに構造図を手書きして、あーでもない、こーでもないと考え、実際に試作してみることにしました。そして3ヶ月ほど立って、これって商品として販売できるかも、と言うことになり、現在に至っています。
このページでは、ガラ紡機が発明された時代背景やこの紡績機の特徴について様々な資料に基づいて振り返ってみることにします。
(1)江戸時代の庶民の生活
江戸時代の一般庶民の生活を振り返ってみましょう。江戸時代の社会は、ご承知のように鎖国されていましたから、現代人には想像できない暮らしであったことでしょう。現代の生活は、国内で調達できないものはすべて海外から輸入して賄っていますが、江戸時代は鎖国されていましたから、ほとんどの生活に必要な物資は、国内で調達しなければなりませんでした。
「衣」は、綿、麻、絹などの自然素材を手織りした布を用いており、そのために高価でしたから大切に使い、痛んだ衣服は修理して孫の代まで丁寧に使っていました。
「食」は、米が主食、副食は野菜、豆類、海藻類で、たまに出るごちそうの魚介類は海に近い地域が基本で、国内で全国に流通させているわけではなく、地産地消が基本でした。
「住」は、都市部では「町屋」や「長屋」の住宅が一般的で、家具は少なく、畳の上や布団で寝ていました。また、素材は自然素材のみで、物資が少ないので再利用の精神が染みついていました。(https://losszero.jp/blogs/column/col_105)
前述のように、江戸時代は、鎖国状態でしたから、海外からの物質、特に庶民の生活必需品は完全にゼロで、逆に庶民は外国の庶民生活を全く知りませんでしたので、国内物資だけがすべてでした。そのため、少ない国内物資を如何に効率的に使うかに生活の知恵が発揮されました。つまり、今で言うところの「リサイクル文化」が大きく発展していきました。
自給自足の資源循環のための習慣が日常的に染みついており、例えば、食べ残しは肥料にする、雨水の生活用水への利用、衣服は修繕して次世代に受け渡す、排泄物は肥料に積極的に使われていました。また、多様なリサイクル業者も登場し、例えば、箍屋(たがや)、紙屑買い、肥汲み、灰買い、古着屋など、現代でも通用しそうなビジネスもあったようです。(https://losszero.jp/blogs/column/col_204)
(2)江戸時代の衣料事情
江戸時代の衣類のデザインや素材は、着る人の身分、季節そして行事によって異なっていたようです。ただ、そのような窮屈生活の中でも、庶民は四季がはっきりしている日本ならではの季節の移ろいを感じながら、例えば、夏には麻の着物、冬は絹や綿の重ね着など素材選びを工夫していたようです。
また、前述したように再利用の知恵が如何なく発揮され、古布に新たな命を吹き込む衣類文化が浸透していました。例えば、古布や着物の端切れは風呂敷やふきんなどの日用品に生まれ変わらせるのは、得意でした。すなわち、リメイクの技が古きを受け継ぎ、新しきを生む文化として、古いものに価値を与え、独自のファッションを生む原動力となっていました。また、「繕い」の技法も発達し、例えば「さしこ」(下記写真)で衣服を補強して寿命を延ばしており、その技法は「繕いの美学」として現代にも受け継がれています。(https://www.olympus-thread.com/basic/sashiko/17/)
(3)江戸時代の衣料繊維
江戸初期の頃、庶民の衣服に使われている繊維は、ほとんど麻(苧麻、カラムシ、現代風に言えばラミー、下記写真)でした。と言うのも住宅周りの空き地や畑で麻を栽培して繊維を調達する自給自足が主だったようです。宮崎安貞が残した「農業全書」にも、”古木綿いまだわたらざる時は、庶民は云に及ばず、貧士も絹をきる事ならざる者は、麻布を以て服とし、冬の寒気ふせぎがたくして、諸人困苦にたへず、……”、つまり古木綿も手に入らない時代には、庶民だけでなく絹服を着れない貧乏武士は、麻布を服にしているため冬の寒さが耐えられず困苦に耐えられないでいると、さんざんなことを書いていますが、当時の庶民や下級武士の実態が手に取るように分かる文章表現です。(https://www.vill.showa.fukushima.jp/introduction/365/)
このような庶民の衣服が取り巻く環境を大幅に改善した立役者が、江戸中期に登場して広く普及した木綿でした。木綿は、麻に比べて丈夫で軽く、吸水性、保湿性にも優れており、麻に取って代わりました。しかし、棉の木は熱帯原産のため平均気温25度以上は必要とされる植物でしたから、日本の気候に適するような棉の木を栽培したとは言え、比較的温暖な西日本地域、具体的には、遠州、三河、尾張、摂津、河内、泉州、瀬戸内海沿岸等が綿作地帯となっていました。そのため、収穫した綿の綿繰り、綿から紡いだ綿糸、木綿糸から機織りで織った綿織物等は、西日本の最大商業都市であった大坂に集積され、その後、大消費地である江戸に運ばれていきました。
すなわち、木綿の登場によって衣料繊維の自給自足体制が崩壊して衣料全体が商品化し衣服が既製化するという大きな経済的変革をもたらすことになったのです。(https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/wp_unu_jpn80.html)
(4)江戸時代の糸紡ぎ
このように江戸の中期になると棉栽培が日本国内で盛んになり、それに伴って綿業システムが次第に構築されるようになりました。棉から収穫されたコットンボールは、以下の様なプロセスで木綿糸に加工されていました。(http://www.buzenkokuraori.com/make/spin/)
①綿繰り:コットンボールから種と綿繊維を分けるために手作業でも効率が悪すぎたので、現代でも使われている綿繰り機が使われていたようです。
②綿打ち:綿繰りした綿をそのまま糸紡ぎできませんでしたから、綿を開くために綿打ち弓を用いて綿を開き、いわゆるふわふわの綿状態にしました。
③綿筒(じんき)作り:薄く広げた綿をはがきの大きさほどにちぎり、細い棒を芯にして筒状に巻きます。棒を抜いてできた棒状の綿を綿筒(じんき)といいます。
④糸車による手紡ぎ:糸車で糸を紡ぎます。糸車の左側に座って右手でハンドルを持ち、左手にじんきを持ちます。綿筒を左手に持って右手で糸車を回しながら後ろに引きます。左手の指先で糸の部分をつまんで糸車を回し、糸に撚りを掛けます。撚りが掛かった糸をつむに巻き取ります。
このような作業を担ったのは、農閑期に十分な時間があった農民、特に女性でした。ただ、農民が1着の衣服を手に入れるためには、160匁(約600g)くらいの繰綿を手に入れ、これを紡ぎ、織って一反(9.24m、幅31cm)の綿織物を作り、これを約200匁の繰綿と交換しました。これは「換え木綿」と呼ばれるもので、これを繰り返して1着の服を手に入れていたようです。つまり、「1着の服を手に入れるのも容易なことではなく、女は来る夜も来る夜も糸を紡いで、その生涯を終えた」と言う、今では考えられない様な時代だったようです。(https://ir.ide.go.jp/records/51374)
(5)幕末の衣料事情
江戸中期に木綿が庶民の衣料の中心となる中で社会の産業として分業化が促進され、衣料が既製化されていきました。そして時代は進み、幕藩体制の崩壊を告げる幕末へ突入する中で、社会の衣料事情も変革を余儀されなくなりました。とは言っても衣服は未だ貴重であり、形見分けで親から孫へ三代着続けられることも珍しくはなく、そのような風習のために古着屋の隆盛も衰えることはありませんでした。実際、ちょっと年代が進んでしまいますが、明治9年調査の東京府下諸商人現員しらべによると、古着屋が2231人を占め、第2位の米屋1232人の2倍弱と圧倒的に多い商人が従事していました。(書上誠之助、繊維と工業、36,4,136(1980))
幕末において社会を大きく揺るがす出来事は、なんと言っても1853年のペリーが率いる東インド艦隊の浦賀来航でしょう。幕府は、海防に注力し、西洋砲術を導入するとともに、羽織袴では戦い辛いことも有り徐々に武士の服装が軍政改革とともに変化していきました。1862年には幕府歩兵の服装は、筒袖ジュバン、タッツケとなり、1864年までには洋装化が進み、毛織物による洋服が登場しています。これらを象徴するエビデンスとして、15代将軍徳川慶喜が、フランスから送られた洋服をまとった写真が現在でもネット上で見られることからも窺うことができます。(https://www.news-postseven.com/archives/20210614_1666463.html/2)
(6)明治維新前後の綿紡績
このように幕末期には、国防の観点から軍服の洋装化が進み、徐々にではありますが、庶民の服も洋装化へと進んでいきました。そうなると、綿繊維の需要も拡大し、糸車による手紡ぎではとうてい間に合わなくなることは自明でした。そのため、開国とともに綿糸輸入が急増しその対抗策として1867年に島津藩の島津斉彬はイギリス製紡績機械を導入して鹿児島紡績所を開業し、当初、国産綿花を使用しましたが短繊維のため糸切れが多発し生産効率は低かったそうです。
1986年明治維新となり明治政府は綿産業の発展策を推進していきました。一つは内国勧業博覧会を開催して輸入技術の国産化や在野技術の掘り起こしを狙いました。また、もう一つは、愛知、広島に官営工場を設置して綿業発展の旗振り役を担わせましたが、如何せん元武士の商売はうまくいかずほとんどが失敗に終わりました。これに対して1882年渋沢栄一が初の民間紡績工場である大阪紡績を創設し、渋沢の才覚が相俟って事業は見事に成功し、我が国綿産業の礎となりました。
話を少し戻して、時は1877年(明治10年)、場所は東京上野公園、この地で我が国初の第1回内国勧業博覧会が開催されました。これは、初代内務卿大久保利通が1873年のウィーン万国博覧会を真似して推進したそうです。(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html)
会期は3ヶ月余りで、入場者数は45.5万人を記録したとのことです。博覧会のコンセプトは、従来の見世物興行から「欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会」へシフトさせ、当時の我が国の喫緊の課題であった如何にして富める国にするのか、つまり、殖産興業推進を前面に押し出しての開催でした。
全国から集められた8万点余りの出品物は、大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われました。その第4区機械部門の紡織分類63点の中の一つが、今で言うガラ紡機、当時は臥雲式和紡績機(綿紡機)と称していましたが、出品されました。
すなわち、1877年に初めてガラ紡機が全国レベルのデビューを果たすことになったのです。
(7)臥雲辰致の少年時代
和紡績機の発明者である臥雲辰致は、天保13年(1842年)8月15日に信濃国安曇郡小田多井村(現在の長野県安曇野市堀金)で、父横山儀十郎、母なみの二男「横山栄弥」として誕生しました。家業は、農業と足袋底の問屋だったそうです。栄弥が12〜13歳のころ、家業である足袋底問屋を手伝うため、近隣の村人に繰り綿を配って糸車で糸紡ぎと機織りで足袋底の布を織ってもらいをそれを回収して父に届けていました。そのような毎日の中で村人、特に農家のお嫁さんが苦労して糸車を使って糸にしているのを見るにつけて、もっと効率よく糸を作る機械を作れないか、そうすれば村人が楽になって経済的にも安定するという問題意識を持ち始めたようです。
そして、14歳の頃、栄弥少年の運命を決めるアイデアを思い付きます。その主役は、お風呂を沸かすときに使う火吹き竹です。当時の子供は、お風呂沸かしは一日の生活の中で大きな仕事であったことは想像に難くありません。そのお風呂沸かしで栄弥少年は、単に火起こしに火吹き竹を使うだけではなくて、その竹にいつも持っていた(想像ですが)綿を詰めて遊んでいたようです。その遊びの最中に竹筒の綿を指でつまんで竹を転がしたら、なんと糸みたいなものが出来るのを見付けてしまったのかも知れません。これは、従来の糸車のように糸を回して撚りをかけていたのに対して、綿を回して糸に撚りをかけるという、言って見れば逆転の発想で新たな地平を開くことになります。
しかし、この発想を展開して、実際に糸紡ぎができる機械までにするには相当の年月が必要でした。というのも栄弥少年の身の回りに手に入る機械を構成する材料はたかが知れており、木材や竹などに限られたことでしょう。また、機械設計をする知識も当然のことながら当時の栄弥少年は余り持っておらず、それこそ試行錯誤の連続だったのでしょう。とは言っても火吹き竹の着想から4年余りの18歳の頃、糸紡ぎ機械を考案し、幾度と改良を施したようですが、残念ながら実用化レベルの機械ではありませんでした。
参考文献:
ガラ紡を学ぶ会編著、臥雲辰致、シンブリブックス(2017)
安曇野市豊科郷土博物館「ふるさと安曇野 きのう きょう あした」No.11(2014.7.1)
(8)ガラ紡機の発明前夜
その後も火吹き竹の着想を活かした糸紡ぎ機械を実用レベルまでに引き上げようと、時間があるときは材料をかき集めて工作を夜な夜なしていました。訳の分からないものに没頭する栄弥少年を見ていた父や兄は、彼を発明狂と捉えて将来を心配し、「その機械を燃やし木にした方がまし」と言って、栄弥少年が20歳の時、宝隆山安楽寺(現安曇野市堀金岩原)というお寺に出家させ「智恵」と名乗らせてしまいました。栄弥少年に何の断わらずに弟子入りさせたようで、それを聞いた栄弥少年を酷く怒ったとのことです。現代風に考えれば、本人の意志を無視して地方の工場に放り出したわけで、いくら子供とは言え人権蹂躙の極地をいく毒親となってしまうのですが、当時の家父長制の考えが染みこんだ江戸末期では、父親の意志には背けなかったのでしょう。ただ、そういう運命も何もかも悪い訳ではなかったと言えるかも知れません。
時は流れて、26歳の時、安楽寺の末寺であった臥雲山弧峰院の住職になります。臥雲山弧峰院は、現在の安曇野市堀金鳥川にある国営アルプスあづみの公園内の里山文化ゾーン内にあるようです。(https://www.azumino-koen.jp/horigane_hotaka/map/index.html) このホームページを見ると素晴らしい北アルプス山麓の風景が展開していますが、江戸末期の頃は寂れた人気も少ない寒村だったのではないでしょうか。そのような土地に青年期という人生の中ではもっと充実したであろう時期を僧侶として過ごしたことは、栄弥少年にとっていかばかりであったか想像しがたいのです。でも、災い転じて福となす、という諺にもあるように、僧侶として弧峰院で修行の時間を過ごしたのは、江戸末期の激しい世情の荒波をよそに静かな生活を過ごすことができ、10代に温めていた糸紡ぎの機械をとことん頭の中で仕上げていったのではないでしょうか。とは言っても、頭の中で考えを巡らすだけでは実用化レベルの機械は出来そうもなく、作っては壊し、壊しては作るという試行錯誤をしたかったのは想像に難くありません。実際、弧峰院の住職時代には、自分のことも出来る時間があったでしょうから、ひょっとするとお寺のお堂の裏あたりに臥雲工房があって日夜工作に明け暮れていたかも知れません。私が臥雲ならばきっと檀家の皆さんには隠れてそうしていたことでしょう。
そのような発明家にとっては辛い日々が続いたのですが、神(いや仏ですね)は見放しはしなかったようです。智恵住職が30歳の時、時代は、すでに江戸から明治に移って社会も大きく変動していました。智恵住職が務めていた堀金岩原にも鄙びた寒村であってもその影響は大きいうねりとなって押し寄せてきました。それが「廃仏希釈」です。つまり明治政府の国家神道を推し進める上でも邪魔になったのが、仏教で有り、寺院の存在でした。そのため、それまで神と仏の境界が曖昧であった神仏混淆を禁止し、檀家の少ない寺院を廃止させるような政策が進むことになります。特に地方では廃仏毀釈に濃淡があったようで、弧峰院のあった松本藩では全国的に見ても激しい廃仏希釈が推進され、そのお陰で智恵住職もいわゆる還俗して僧侶から俗人にもどることになりました。その辺の詳細な顛末は、「臥雲辰致の研究」第5章( http://tki.main.jp/gaun/?page_id=661)に記載されています。
俗人に戻るとき、氏名をどうするかが、問題となりましたが、想像するに幼名の横山栄弥は父親の出家に対する仕打ちから受け入れられないと思ったのではないでしょうか。そのためなのか定かではありませんが、全く異なる氏名、臥雲辰致としました。姓の「臥雲」は、住職であった弧峰院の山号である臥雲山から採ったことはほぼ間違いないでしょう。しかし名の「辰致」の謂われは明らかになっていないようです。更に、その読み方も諸説有り、「たっち」「ときむね」「しんち」「たつむね」「たつとも」等とあるようです。音読みと訓読みの組合せのため多数の読み方が出来てしまう日本語の特性が災いしているかもしれません。とは言っても、臥雲辰致の子孫が存命されていますので、その方々の言によれば「たっち」と読んでいることが多いと言う証言もあるようです。
参考文献:安曇野市豊科郷土博物館「ふるさと安曇野 きのう きょう あした」No.11(2014.7.1)
→GARABO2につづく